光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

行者発熱の文 7 浄き心に


 いかがしてこの光にあうことが出来ましょうと云えば、至心に不断に如来の御慈悲の相好光明に意を注で一心に念じ、あけてもねてもさめても念をかけて、而して心に念容して、如来よあなたの尊き御思召を私の心のうちにあたえ玉えと、自身のわるき心をば如来にささげてしまい、あなたのきよきみこころをわたくしに玉えと、如来現にここにましますと信じて、行住坐臥に祈念するときは、漸々にあなたのきよき思召が自己の心に感じられて、気質のわるき質はいつしかのきてきよき心に化するなれ。これまったく自身の力にてはなく、如来のたまものなれば、ただただ如来の御めぐみの光をあたえ玉えとのみ念じ、如来のためには衆生の可愛ゆき子にてあれば、必ずミオヤの如来は、子のためにはいか成慈悲をも玉うなれば、疑わず慮からず一心に御慈悲をうくることにのみ心をかけなされ。屹度如来はその気質をのぞきさりて、いか成ことにも恐ることなき大丈夫の心と化して下さることうたがいなし。


現代語訳

 どうすれば如来様の光に触れることができるのでしょうか。〔そのためには〕真心を込めて、絶え間なく、如来様のお慈悲のお姿と光明に意を注いで、一心に〔南無阿弥陀仏と〕念ずるのです。明るい〔朝や昼または暗い夜であっても〕、寝ても覚めても、〔如来様〕に念を掛けるのです。そのように心にお姿を念いつつ、如来様よ、あなたの尊い御心を私の心の中にお与え下さい。〔また、〕私の悪い心を、如来様に捧げますので、〔どうか〕如来様の浄き御心を私にお与え下さいませ。〔そのように〕如来様は今現にここにいらっしゃると信じて、動いているときでも、じっとしているときでも、坐っているときでも、横になっているときでも、祈り念ずるときは、だんだんと、如来様の浄き御心が自己の心に感じられ、悪い気質はいつのまにか、浄き心に変わっていくのです。これは、まったく自身の力ではなく、如来様からの賜物なのです。ただただ如来様に、恵みの光を与えて下さいと、それのみを念じて下さい。〔そしてもし、〕如来様のために〔何か私にできることはないかと〕思うのであるならば、〔あなたも含め〕生きとし生けるものすべては、如来様のかわいい子なのですから、必ず親である如来様は、子のために、すべてのお慈悲を下さるのです。疑わず心配せず、ただ一心にお慈悲を受け取ること、それのみを心に掛けていなさい。きっと如来様はその〔悪い〕気質を取り除き、どのようなことでも恐れることのない、志し高き、貴い人と成らせて下さること、間違いありません。〔それが一番如来さまのためになること、お歓びになることなのです。〕

解説

 この書簡は尼僧さまへのお便りですが、おそらく悩みを綴った尼僧さまからのお便りの御返信なのでしょう。「如来様のために何もできていない私はいったいどうすればいいのでしょうか。また、人と争ったり、怠ったり、愚痴をいってばかりの悪い気質(煩悩)を持つ情けない自分、いったいどうすればいいのでしょうか。」そのような悩みに答えて下さるお便りです。

出典

山崎弁栄上人『弁栄上人書簡集』「二〇」山本空外編一四三頁より

掲載

機関誌ひかり第705号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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