光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

行者発熱の文 10 情の念仏


 念仏は情に在りて理に在らず。〔譬えば〕風人の月花に我を抛ちて、万邪皆忘れて聖理にかかわらずして情行を浄め、君子の情を成ずるが如し。念仏の道もまたかくの如し。
 専ら彼の仏を念じて唯往生を願い、一心不乱に称名して善すら尚とらず。いはんや悪をや。世妄を遠離し、また法理をも離れ、求めずして諸仏の情を成じ、修せずして、菩薩の道を得るなり。理者の知らざる所。悟者の達せざる所なり。是の如き法の前には智愚の論なく上下の根なし。


現代語訳

 念仏は感情であり、理論理屈ではありません。例えば、〔世俗から離れ、自然に親しみながら詩歌や書画、茶の湯など〕風流に生きる人は、月や花を眺めるとき、自らをその月や花の中に没入していきます。〔そして、〕すべての邪な想念を忘れ、また聖なる道理を遵守してるか否かなども関係なく、〔ただ親しみや楽しみなどの〕感情の行為によって〔自らを〕浄め、尊き人の情が完成されていくのです。念仏の道もまたそのようなものなのです。
 専ら彼の仏である阿弥陀如来さまを念じつつ、ただ往生(光明の生活)を願い、一心不乱に称名し、善行をしようなどと殊更にこだわらず、また、当然ながら悪行をしようなどとも思いもしないのです。愚かな世の中から遠く離れ、また法の理を〔学ぶことから〕も離れるのです。〔そのような一心専念の日々を過ごすものは、〕求めることなく諸仏の情を〔自然に〕完成させ、〔また、菩薩の修行〕を修めることなく、菩薩道を成就することができるのです。〔情を込めた念仏をせずただ〕理論のみ学ぶ者、〔自力にて〕悟りを求めて修行する者には、〔そのような情の念仏による喜びと深まりを〕知ることはできないでしょう。このような念仏の法門は、智慧あるもの愚かなものを〔区別した〕論などなく、素質の有無も全く関係ないのです。〔ただ阿弥陀如来へ情を込めた念仏を称えているかどうかが重要なのです。〕

解説

 先月号に掲載した書簡の中にこの聖徳太子の念仏法語の引用がありました。今回はその出典である『聖徳太子念仏法語諺註』を紹介したいと思います。
 弁栄上人の引用箇所には、「譬えば」が欠落しており、「月花」が「月下」となっています。
 この文が聖徳太子の文なのか史実は不明ですが、そのことは弁栄上人にとってどうでもよいことなのでしょう。当にこの文章にあるように「理にあらず」、ただただ著者の「念仏は情に在り」に深く共感(情)されたのでしょう。

 喜びも
  また悲しみも
   わかちてん 
  同じ情に
   愛しあふ身は
     
   弁栄上人『道詠集』六十一頁

出典

『聖徳太子念仏法語諺註』諦忍律師著より

掲載

機関誌ひかり第708号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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