釈迦のみおしえによりてつらつらおもんみるに、弥陀は我らが心霊の大慈父にして、久遠劫来わかれし子をしばしも忘るる間なきと仰せらるれども、子はさともおもわで久しく経にけるを、ミオヤの慈愛の暖かなる霊気にもよおされてや、未だ曾て経験せしことのなき感情の奥底より萌出ずる、とてもいわれぬ一種の霊感こそは、是なんミオヤにあたためられたるふかきなさけに心霊の萌発となりしとこそ云わめ。
みめぐみにおうて霊の信根既に生じぬれば、大ミオヤの慈悲の育みはたえず蒙むりて、常に感情的に血のかよう暖かなるおや子のなさけにこそ、是なん活ける信仰にて候。
現代語訳
お釈迦さまのみ教えによって、いろいろと思いを巡らせてみると、阿弥陀如来は私たちの心霊の大いなる慈しみの父であり、悠久の昔から、別れた子をしばしも忘れることなく〔見まもっている〕とおっしゃって下さいます。ところが、子の方は、その慈しみに気付くことなく、その長い時間を〔むなしく〕過ごしてしまいます。しかし、〔仏縁を頂き、南無阿弥陀仏と如来さまを念じ、慕う生活をしていくと〕如来さまの慈愛に満ちた暖かな霊気に導かれて、未だかつて経験したことのない感情の奥底より萌え出てくる、なんともいえない一種の霊感〔を頂くことができるのです。〕これこそ、如来さまの深きお慈悲によって〔私たちの心霊〕が暖められた状態、〔または〕その心霊が萌発した心境と言うのでしょう。〔南無阿弥陀仏と如来さまを慕い、その如来さまのお慈悲の〕恵みによって、霊の信根が既に備わってきたのならば、如来さまのお慈悲の育みを絶えず頂き、常に感情的に血の通った暖かな親子の親しみ、これこそ活きた信仰というのです。
解説
この書簡は「行者発熱の文九」で紹介した書簡の後半の内容です。その前半では、情による念仏に関して触れられてあり、この後半の箇所では如来さまと衆生の暖かな関係「活ける信仰」が述べられてあります。現代語訳では、前半の情の念仏の内容を〔 〕によって加筆しています。
①心霊―(人の心霊)私達の心の奥底にある如来さま(大霊)の光明に育まれる霊的な心。
②萌発―草や木の芽がではじめること。信仰的にも同じように、今まで煩悩の殻に閉じこもっていた心霊が芽を出すこと。
③霊の信根―植物の根は土から栄養や水分を吸収して成長し、また風雨に負けぬ力となる。それと同じように、霊の信根とは、如来さまに育まれた私達の心の根であり、霊的な栄養(霊養)を吸収し、誘惑や疑心に打ち勝つ力となる根。信根は五つある根の内の一つで、如来さまの存在を信じる信仰の基礎となる根である。
出典
『弁栄上人書簡集』山本空外編「二二六」六〇七頁掲載
機関誌ひかり第709号- 編集室より
- 行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
- 現代語訳の凡例
- 文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
- 付記
- タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」