光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 26 太陽の光


 朝寤ざめて東の方より昇る旭日のさしのぼる姿色を瞻ても、清らかに新らたにいかにも快活に、海の水で貌を洗て、而していかにも御きげんよき御目ざめの御貌は、ほんとうに清浄光の権化とより外に思われぬ計りか、実に歓喜に充みたされて、其の歓こびの光は六合に輝き亘るまでの熾かんなことよ。実に歓天喜地とは此事かと存じらるる。而して今まで闇黒で、ドコに山が有るか、川が在るか、一向わからなかったのが、智慧光の現われなる太陽の光が放たるると、一目瞭然と、何もかも能く見わかちがついて来る。して見れば、全く彼は智慧光の顕現として、外部に現われた智慧光に外ならぬ。智慧が物界に現じては、万物を明らさまに啓示して呉れる明りにて、之を精神界に現われては、物の事理を認識し、弁別する処の心の光、即ち智慧である。また彼は不断光の顕現であるから、常恒不断にエネリキーを放ちて暫くも休むことなしに活動して居る。能々観じて見れば、実に太陽は清浄・歓喜・智慧・不断の顕現とより外におもわれぬ。


現代語訳

朝目覚めて、東の方より昇る旭日が、光を照らし昇っていく姿を見ても、清らかに、また新たにいかにも快活に、海の水で顔を洗って、そしていかにも御機嫌よきお目ざめの様子は、本当に清浄光の顕現としか外に思えないばかりか、実に歓喜に充たされて、その歓びの光は宇宙全体に輝きわたり盛んなことよ。実に〔天地に対して喜ぶとの意の〕歓天喜地とは此事かと感じないではいられません。そして今までは〔夜の〕闇黒の中で、何処に山が有るのか、川が在るのか、一向に分からなかったのが、智慧光の現れである太陽の光が放たれると、一目瞭然と、何もかもよく見分けがついてきます。そうして見れば、全く太陽は智慧光の顕現として、外部に現われた智慧光に外ならないのです。智慧が物の世界に現れ、万物を明らさまに啓示して下さる明かりであり、これが精神界に現れては、物事の道理を認識し、区別するところの心の光、即ち智慧であります。また太陽は不断光の顕現でありますから、常恒不断にエネルギーを放ちて、しばらくも休むことなく活動しています。よくよく、観じて見れば、実に太陽は清浄・歓喜・智慧・不断の顕現としか外に思えません。

解説

出典

『御慈悲のたより』上巻三十~三十一頁、『ひかり』平成二十八年十一月号参照

掲載

機関誌ひかり第725号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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