天地万物のあらゆる備を以て、我々をいかして下さる其目的は何の為にてあると申せば、此人間生涯に於て、報身如来の光明をうけて、この精神を大ミオヤの思召にかなうような魂にさせて下さる為にて候。如来さまは衆生のたましいの本の大おやさまにて、而して此人間界には難行苦行の修行させんが為に出して下されたの〔で〕あります。喩ば、財産家の子供が、唯楽に飲食の生活ばかりならば、学業も修行もいらぬはずなれども、それでは人間の資格が備わることが出来ぬ。また何も苦行もせざれば、親の御恩もわからぬのである。如来の大おやさまも、いかに御慈悲が広大にても、始から御跪もとにて自然の快楽〔を〕うけたのでは、快楽も何ともわからぬ。依て此人間界に出して、艱難困苦の修行も出来、またあらさびをも取りのぞきて、而して清き楽しき御許に帰るときは、初めて大ミオヤの深き御慈悲も深く感ずることになるのである。
されば朝枝嬢よ、人間は一生が学校であるから、大ミオヤの思召にかなう人に成るように、其つもりで日々の事をはたらくように為し玉え。如来さまの御試けんは、日常の何を為す業の中にもあることを忘れぬようにし玉えよ。
現代語訳
天地万物のあらゆる備えによって、私たちを生かして下さるその目的はどのようなものなのでしょうか。それは人間の生涯に於て、〔私たちを育み導き、お救い下さる〕報身〔阿弥陀〕如来の光明を受けて、この精神を如来さまの思し召しに叶うような魂に生れ変わらせるためなのです。如来さまは、衆生の魂の根本である大いなる親さまでありますから、この人間界において、難行苦行の修行をさせるために〔この世に〕出して下さったのであります。たとえば、お金持ちの子供が、ただ楽をし、飲食の生活ばかりでよいのであれば、学業も修行もいらないはずである。けれども、それでは〔他の動物と同様であり〕人間の資格が備わらない。また、〔人生において〕まったく苦しみの経験が無かったならば、〔如来さまのご恩のみならず、〕親の恩にも気付けないのである。大いなる親である如来さまも、いかにお慈悲が広大であっても、最初から〔子である私たちが〕お跪もとで〔努力ぜず、〕おのずと得られる快楽を受けたのでは、〔その〕快楽〔の素晴らしさも、恩寵であること〕も何もわからない。ですから、この人間界に出して〔いただいたことによって〕艱難困苦の修行もでき、また〔煩悩の〕荒錆をも取りのぞき、そして清く楽しい〔如来さまの〕御許に帰るとき、初めて如来さまの深きお慈悲も、深く感ずることになるのである。ですから朝枝さまよ、人間は〔その〕一生が学校であるから、如来さまの思し召しに叶う人になるように、そのつもりで日々の事を働くようにしなさいよ。如来さまの御試験は、日常生活の、身と口と意のいかなる行為の中にもあることを忘れないようにしなさいよ。
解説
出典
『御慈悲のたより』上巻60~61頁、『ひかり』平成30年6月号10頁参照。福岡県飯塚市堀朝枝さま宛。掲載
機関誌ひかり第731号- 編集室より
- 行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
- 現代語訳の凡例
- 文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
- 付記
- タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」