光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 43 私の信仰


 愚衲の信仰は斯ようである。宇宙の大ミオヤは唯一りに在ます。即ち十方一切諸仏の本地なるあみだ如来にて、其心霊の大ミオヤを信念する時は、私の心があなたの霊的光明に常に養わるる故に、我が仏性が漸々に増長して、真の仏子と成りて、光明の生活と成るのにて、朝夕の拝礼は恰も朝夕の食物にて身を養うのと同じ事であります。
 活ける霊力が天地に充ちてあれば、私どもがなむあみだ仏と唱えて信念する処にうけつつ霊性の生命が生活して居るのであります。然して信仰弥々進むに随って、念仏の妙味を感じらるる様に成ります。さればとて、唯如来大悲の親様を確かに信じたる上には、常に憶念と申して、心の中に親様をおもわれつつある事になるのであります。それには矢張り一の的を確かと立て、其親さまをたよるのが最も勝れたるみちであります。
 天に太陽の照らしつつある如くに、親さまは我らが心霊を照らしつつあるのであります。私は太陽を通して慈悲の親さまを信念して居ります。寝てもさめても親さまとは離るる事はないのであります。


現代語訳

私〔自身が実践し皆さまにお伝えしている〕信仰は次のようなものです。宇宙の大ミオヤはただお一人でいらっしゃいます。即ち、あらゆる世界にいらっしゃる諸々の仏さまの本源であられる阿弥陀如来〔です〕。その心霊の大ミオヤを信じ念じているときは、私の心が如来の霊的光明に常に養っていただけますので、私の〔心の奥にある〕仏性がだんだんと増長し、真の仏子となり、光明の生活〔を過ごせるように〕なるのです。朝夕の〔如来への〕礼拝は、まさに朝夕の〔心霊の〕食物であり、身を養う〔食物〕と同じ事です。
 活きた霊力が天地に充ちていますので、私どもが「なむあみだ仏」と唱えながら信じ念ずるところに〔その霊力を〕受け、〔肉体の生命のみならず〕霊性の生命が活動する〔ようになる〕のです。そして信仰がますます進むに随って、念仏の妙味を感じられるようになります。だからといって、〔それが信仰の目的ではありません。〕大慈悲の親さまへの信仰が確立していくと、憶念と申して、常に心の中に親さまを念いつつ〔日々の生活を歓喜の中に過ごしていく〕ことができるのです。そのためには、〔色々な信仰を実践するのではなく、〕やはり一つの的を確立し、その親さま〔のみ〕を信頼するのが最も勝れた道なのです。
 天より太陽が照らしているように、親さまは、我らが心霊を照らしてくださっているのです。私は太陽を通して、慈悲の親さまを信じ念じています。寝ているときも、起きているときも、〔いつでも〕親さまと離れる事はないのです。

解説

 食物や太陽の例えをもって、光明主義の信仰を端的に伝えて下さっている文面です。
 「妙味」のあと、「さればとて」(だからといって)と注意を促す文面がありますが、文法上その後に続く否定の内容が省略されています。弁栄上人が伝えたいことは、食事(光明)を糧とした「生活」にありますので、美味しい(妙味)が信仰の目的ではないことを伝えているものと拝察しました。

出典

『御慈悲のたより』上巻二〇〇頁、『辨栄上人書簡集』四〇九~四一〇頁。丸毛たね子様宛。

掲載

機関誌ひかり第743号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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