光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 45 食作法の意


 進みゆく世に処してうかうか日を暮しあると、竟には世の厄介物と成りて仕舞候。折角大ミオヤの命令を以て人間にまで生れ出し甲斐もなく、世の為にも人の為にも何らの功もなく、只生涯世の厄介物となりておわるは、実に世の人の精神上に及ぼす功労もなく、只民の汗膏から造りし物で衣食して、命を続きあるも、それに報うるの事なくては罪のみにして功徳はない。「食作法の文」に「功の多少を量り、彼の来処を忖る」とは斯ような義である。自分の仏道修行としての功はいかが、また他人にいかほど徳をわけて居る。宗教家の職分たる法を全く信者に与えて居るかいかがと、自分の今日作為しあることを考えると、また自分で今日食う此の米は、幾多の労力より出来たのであることを能く考えて、自分も之を食うほどの資格が有るか無いかと考えて見よとの思召の文である。
 して見ると今日の僧には衣食することが出来るものが稀である。法を施さずして衣食するは、生涯に負債を担うて餓鬼道に落ちゆくのである。未来ではない、現在から意ある人から擯斥せられて居るのである。けれども、これは僧たる者個人の罪ではない。仏教団体の習慣が崩れて仕舞て、将来の宗教団のまだ出来ぬからである。


現代語訳

 進んでゆく世の中の流れに任せ、うかうかと日々〔漫然と〕暮らしていると、遂に世の厄介者となってしまう。せっかく大ミオヤのご命令をもって人間として生れ出て来たのにも関わらず、その甲斐もなく、〔また〕世の為、人の為に〔法を伝えたという〕功績も何らなく、ただ生涯、世の厄介者となるだけで終わったならば、実に世の人の精神に及ぼす功労は何もない。世の人の汗と膏によって造られた衣食を頂き、〔それによって〕命が続いているのにも関わらず、それに報いる仕事をしないのであれば、罪のみであり功徳はない。「食作法の文」に「〔この食事は〕多くの方々の労働の結果であることに思いを馳せ、また〔この食事がここに〕来るまでの労苦にも思いを馳せ〔感謝〕する。」とは次のような意味である。仏道修行によって得られた心の功はあるか。また他人にどれだけの徳を分けているか。宗教家の職分である法を、しっかりと信者に与えているかどうか。自分が今日活動できている〔訳〕を考えよ。そして自分が今日頂くこの米は、どれだけの労力によってできているのかをよく考え、自分はこれを頂く資格が有るか無いかを考えてみよとの思し召しの文である。
 そうすると、今日の僧侶の中で、衣食することができる者は稀である。法を施さずして衣食をすることは、その生涯に〔罪悪の〕負債を担うこととなり、餓鬼道に落ちてゆくのである。餓鬼道とは来世〔のことのみ〕ではなく、現在すでに意ある人から、そのような僧侶は厄介者〔つまり餓鬼〕として扱わているのである。けれども、これは僧侶個人の罪ではない。仏教団体の習慣が崩れてしまい、将来の宗教団体ができていないからである。

解説

 文面より岐阜出身の二人を埼玉に住まわせた頃と考えられるため、史実より明治四十年代の書簡と推定できる。
 文末に「将来の宗教団のまだ出来ぬからである」との文面によって、その数年後に発会される光明会という宗教団発会への意志を本書簡から垣間見ることができる。

出典

『御慈悲のたより』上巻二八一~~二八三頁。弟子、大野蓮教(後の井深蓮教)尼と小林蓮香尼宛の書簡。

掲載

機関誌ひかり第745号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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