光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 47 念仏の姿勢


 念仏の行者一心金剛の如く、勇猛精進なること不動明王の如くなるべし。脳裡に一物もおかず。只能帰の心、所帰あみだ仏の真金色、円光徹照するを執持し、一心不乱に脳裡に充る力、眼睛を電掣。眼睛の掣電するは、能帰の心が所帰のあみだ仏に投ずる一心の発現、頭に光明を発する尊体は、所帰の仏が能帰の脳裡に映現するすがた。
  能帰所帰性空寂 感応道交難思議 故我頂礼弥陀尊
 一心金剛の如、頸に力あり。ウント気を丹田としりにすえたること大磐石の如く、勇猛の力用は右手のしもくにも現す。卜伝が剣を執るも比にあらず、左の手の数珠の念々不捨離は臂のこぶしに現す。両足の構えかたは荒木が較にあらず。
 業事成弁は称名の声に発し、発得の力はしもくの上に見ゆ。一声称名十方に遍じ、一一のしもく三際に徹す。一捶摧破曠劫夢。一捶両断二十五有。有頂より無間底まで。


現代語訳

 念仏行者の一心は〔極めて堅固な〕ダイヤモンドのように〔ただ阿弥陀仏のみを念じ〕、勇猛精進なることは不動明王のような〔不動の姿なの〕です。脳裡に〔他の〕一物も置くことなく、ただ念ずる私たちの心には、真金色の光を円かに照り徹しておられる阿弥陀仏〔のお姿〕を〔常に〕相続して〔念じ〕、一心不乱に脳裡に充ちた力は、瞳から電が閃く〔ような、鋭く、また輝く姿として発現するのです〕。瞳から電が閃くような〔その輝きは、〕念ずる私たちの心が、念ぜられる阿弥陀仏〔の中に〕没入した〔際の、〕一心の発現〔なのです。図に示しているように、念仏者の〕頭より、光明を発している尊体は、念ぜられる阿弥陀仏が念ずる私たちの脳裡に映り現れたお姿〔なのです〕。
 念ぜられる阿弥陀仏も、念ずる私も無くなり、〔それでいて〕その両者の不可思議な感応道交があります。ですから私はこの阿弥陀仏〔を一心に敬い、愛慕し〕礼拝するのです。
 〔念仏行者の〕一心がダイヤモンドの様であるように、首も〔また同じように堅固な〕力に〔充ち、不動にただ阿弥陀仏を仰ぎ見つめるよう頭部を支えて〕います。うんと気を〔下腹部の〕丹田とお尻に据える様子は、大きな岩の様であり、勇猛なる働きは右手の撞木にも現れます。〔剣術の一派である〕卜伝流〔の者〕が、剣を執る〔勇ましい姿〕とは比較にならないほど〔勇猛な様子なのです。そしてまた〕、左手の数珠を離すことなく念々に〔手繰る〕腕のこぶし〔にもその勇猛さが〕現れます。両足の構え方〔もまた〕荒木などとは比較にならず〔綺麗に整ったしっかりとした姿勢で坐っています〕。
 修行の成就は称名の声となって現れ、〔三昧〕発得の力は撞木〔を打つ様子や音色〕の上に見ることができます。一声の称名は、十方〔のあらゆる世界〕に遍く〔響き渡り〕、一打一打、撞木が〔鉦を打つ音色は〕過去・現在・未来のすべての時間に透徹して〔響き渡ります〕。〔撞木の〕一打は、きわめて長い年月の〔迷いの〕夢を覚まし、〔衆生が生死流転する〕二十五種の〔迷いの世界を〕両断します。〔その二十五種の中の最上位の世界である〕有頂天から〔最下位にある〕無間地獄の底に〔至る〕まで。

解説

行者(この文を拝読する者)の信仰の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。
また、現代語訳を、他の弁栄上人の御遺稿を参照しつつ、〔 〕によって加筆し作成しています。今後、より正確な現代語訳作成の叩き台となれば幸いです。

出典

ご遺稿の原本コピーを底本としました。ただし『難思光無称光超日月光』二〇八頁にも掲載されています。 ※原本の図は本号、十四~十五頁を参照。今回は、佐々木為興上人講説の「念仏三十七道品」の内容に相応する遺稿を紹介しました。

掲載

機関誌ひかり第747号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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