光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 48 微妙の霊感


 私には御名を呼び上る毎に微妙の霊感を以て答え玉うことなれば、ましてあなたに対して御答ない筈はない。然れば如何に心を致して御名を呼び上ぐれば、ミオヤの御答の響が聞えあげられるであろうとなれば、私は斯ように心を至して念じ上げ、また御答の響が聞え上げられます。
 真実に如来様は私の真正面に在すことを信じ、深く念い上げて、ナムアミダ仏と余念なく、己が心の統一するまで念仏して居りますと、漸々に心も静りて余念なく、只だ如来さまの御慈悲の面かげが自ずと彷彿として思われて来る時に、何とも云われぬ辱けない有り難さの霊感が感じられて来ます。これぞ如来の霊妙の御答、耳には聞えぬが、直覚的に心に聞えられるのであります。あなたも斯ように念を用いて一心に心を至して念仏して、真正面の如来に向って念じ上げ、何時までも心の統一するまで念仏し、如来の霊響を聞き玉え。始めの程は仲々二時間も三時間もかかっても、それはあなたの一大事のことですから辛抱なされ。段々に時間が短くも、統一が出来て益々純熟するに随って遂には念仏しさえすれば、忽ちに三昧に入って如来の霊響に充たされる妙境に入ることが出来て来ます。之即ち感応道交が宗教の唯一の機関であります。若し感応の聞えぬは、古人が、
  祈りてもしるしなきこそしるしなれ 己が心に誠なければ


現代語訳

 私には御名をお呼びする毎に微妙の霊感によってお答え下さるのですから、ましてや、あなたに対してお答えがない筈はありません。それでは、どのような心持ちで御名をお呼び申し上げれば、ミオヤ〔である阿弥陀如来〕のお答えの響きが聞こえるのかというと、私は次のような心持ちでお念じ致しますと、お答えが聞こえて参ります。
 真実に如来様は私の真正面に在すことを信じ、深く念い上げて、南無阿弥陀仏とそれのみを念じて、心が統一するまでお念仏いたします。そうすると、だんだんと心は静まり、雑念がなくなり、ただ如来さまのお慈悲のお姿〔のみ〕が自ずとありありと思われて参ります。そのとき、何とも言えないありがたい霊感が感じられて参ります。これこそ如来さまの霊妙のお答え〔であると〕、耳には聞こえませんが、直覚(※)的に心に聞こえてくるのです。あなたもこのような念じ方によって、一心に心を真正面の如来さまに向かわせ、いつまでも心の統一するまでお念仏し、如来さまの霊の響きを聞いて下さい。始めはなかなか、二時間・三時間も〔時間が〕かかっても、それはあなたの一大事のことですから、辛抱して下さい。だんだん時間が短くても、統一ができて、ますます純熟するにしたがって、ついには、お念仏をお称えしさえすれば、たちまちに三昧〔の状態〕に入って、如来さまの霊の響きに充たされた妙なる境地に入ることができます。このような感応道交こそ、宗教の〔目的を成就させる〕唯一の方法なのです。もし〔その如来さまとの〕感応〔道交〕の〔妙なる響きが〕聞こえないというのであれば、〔それは〕古人が〔その理由を和歌によって伝えています。〕
  祈りてもしるしなきこそしるしなれ 己が心に誠なければ

解説

※直覚―推理や考察によらず、瞬時に物事の本質をさとること。

行者(この文を拝読する者)の信仰の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。
また、現代語訳を、他の弁栄上人の御遺稿を参照しつつ、〔 〕によって加筆し作成しています。今後、より正確な現代語訳作成の叩き台となれば幸いです。

出典

『御慈悲のたより』上巻 四四六〜四四七頁。七・八 月号のつづき。

掲載

機関誌ひかり第748号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
  • 更新履歴

  •