光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 49 救我と度我


 若し念仏は、救我の一面にして真の幸福を得るのみを以て目的とする時は、此の娑婆、即ち忍土に処して空しく生活の苦を受くるよりは、疾く浄土に往きて法性の常楽を受くるに如かじ。其反面なる度我の念仏、即ち人生を光明中に向上の行路として始めて、此忍土の精神生活の真意発見することを得。衆生が向上して成仏を期せんに、此世界には寒熱の気候、水火風雨等の災禍あり。また人為的にも悪人の為めに逼悩せらるるの難あり。恁る処に於て修行せば、吾人無始以来錆つきたる仏性の名刀を磨くに、荒砥を以て荒錆を去ること還て疾き如くである。されば経に「此土の一日一夜の精練修行は彼の浄土に於て百歳するよりは勝れたり」と。若し此土は吾人が仏性を鍛練すべき修行の道場なりと信ずる時は、吾人の心霊を琢磨し鍛練するの道具能く備われり。度我の念仏、我を今の不完全より完全に趣かしめ給え。現在の未成品より仏子の品性を成就せしめ給え。我が此土に遣わされし使命を果させ給えとの度我の志願を成就せんには、寧ろ此忍土生活の価値あるを覚らるるのである。


現代語訳

〔お念仏には、無上の幸福を得るために私を救って下さいとの救我と、仏の世嗣として働くために私をお育て下さいとの度我の二つの願いがある。〕もしもお念仏が、救我のみで、ただ真の幸福を得ることを目的とするならば、この人間世界では空しく生き、苦しみの人生〔から救われるため、〕早く極楽浄土に往き、〔そこで〕真実永遠なる楽しみを享受するに越したことはない。もう一方の度我の念仏、つまりこの人生を、〔如来の〕光明中に〔生き、日々〕向上の行路として始めて、人間世界〔での生活が、如来さまに導かれ、育まれていく〕精神生活となり、人生の真実の意義を発見することができる。私たちが向上して、仏と成ることを願うとき、この世界には、〔厳しい〕寒さや暑さなどの気候や、水火風雨等の災禍、また悪人に苦しめられ悩まされたりするなどの人為的なものなど〔様々な〕困難がある。このような人間世界の中で修行をすることは、〔刀の錆を落とす砥石に譬えることができる。〕遥か遠い過去より〔煩悩の〕錆がついてしまった私たちの仏性の名刀を磨くには、〔質の細かい砥石よりも、質の荒い〕荒砥の方が、還って速く錆を取り去ることができるのである。だから『無量寿経』に「人間世界での一日一夜の精練修行は、彼の極楽浄土において百年〔間、修行を〕するより勝れている」と〔説かれているのである〕。もしも、「人間世界は、私たちの仏性を鍛練するための修行の道場である」と信ずることができたならば、私たちの心霊を琢磨し鍛練するための道具がよく備わっている〔道場であると、積極的に受けとめることができる〕。
 私を今の不完全より、完全〔なる如来さまの方へと〕趣かせて下さい。現在の未完成品より、仏の子としての品性を成就させて下さい。私がこの人間世界に遣わされた使命を果たさせて下さい。このような度我の願いを成就するためには、むしろこの人間世界の〔思うようにならない困難な〕生活の中にこそ価値があると覚ることができる。

解説

行者(この文を拝読する者)の信仰の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。
また、現代語訳を、他の弁栄上人の御遺稿を参照しつつ、〔 〕によって加筆し作成しています。今後、より正確な現代語訳作成の叩き台となれば幸いです。

出典

『人生の帰趣』初版四二八頁、岩波版三九二~三九三頁。

掲載

機関誌ひかり第749号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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