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発熱の文

発熱の文 53 慈しみ深き吾大オミヤ


 如来の恩寵は吾胸中に存在してつねに暖炉を発し、我は如来恩寵の懐に在りて感謝禁じがたし。慈悲の温容は寐ても離れず、なさけ深き面かげはさめてもわすれがたく、朝な朝なに仏を懐きて起き、夜な夜なは仏を懐きて寐ね、我いかる時は我を宥め、我憂悲する時は我を安慰し我と共に行き、我は幼き稚子なれば如来は我が保母となり、我躓けば如来は我をおこし我をたすけ、我は動ずれば危険に陥らんとする時は如来は我を危にたすけ、若し我厭世観を起さば如来は娑婆即浄土と現じて我を生ぜしめ、我は自ら好んで罪悪を造るも如来は常に我を正善に導く。我は悪道に赴かんとするも如来は強き本願力を以て我を済いて誘く。我は自分勝手、自ら独立して衆を離れんとするも如来は吾と同胞と和合して共に幸福を欣ばしむ。我は中途にして慈父の手を放れて娑婆に往くに迷わんとするも、如来は我を摂めて浄土に帰せしむ。アア慈しみの深き吾大ミオヤ。


現代語訳

 如来様の恩寵は、私の胸の中に存在して、常に暖炉〔のように暖かみ〕を発して下さり、〔また〕私は如来様の恩寵の懐に抱かれ、〔日々〕感謝の想いを禁じ得ることができません。慈悲の温かな御顔は、寝ているときも離れることはなく、情け深き面影は覚めているときも忘れることはできません。毎朝、如来様を懐いて起床し、毎夜、如来様を懐いて就寝しています。私が、怒るとき、〔如来様は〕私をなだめて下さり、私が憂い悲しむときは、〔如来様は〕私の心を安らかに慰めて下さり、〔また〕私の側に寄り添って下さいます。私は〔霊的には〕幼き稚子ですから、如来様は、私の〔霊的な〕保母となって下さり、私がつまづけば如来様は起こして助けて下さいます。私が危険に陥りそうなとき、如来様は助けて下さいます。もし私が、〔苦しみ悲しみ多き〕この世を嫌う思念を起こしたならば、如来様は娑婆は即浄土であることを現出し、更生させて下さいます。私が自ら好んで罪悪を造る者であっても、如来様は常に私を正善に導いて下さいます。私が悪道に赴こうとしても、如来様は強き本願力によって私を救い導いて下さいます。我は自分勝手、自ら独立して社会や他者から離れようとしても、如来様は私と同胞の方々とを和合させ、共に幸福を欣ぶように導いて下さいます。私は道半ばで慈父なる如来様の御手を離れ、娑婆に往き、迷うことがあっても、如来様は私を救い摂めて下さり、極楽浄土に帰らせて下さいます。ああ、慈しみ深き私の大ミオヤ。

解説

行者(この文を拝読する者)の信仰の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。
また、現代語訳を、他の弁栄上人の御遺稿を参照しつつ、〔 〕によって加筆し作成しています。今後、より正確な現代語訳作成の叩き台となれば幸いです。

出典

『弁栄上人書簡集』「八二」二八七~二八八頁、『御慈悲のたより』上巻「二一八」三九五~三九六頁。真言宗尼僧、渡辺厚盛尼宛。  冒頭に「吾胸中に存在」そして「我は如来恩寵の懐に在り」とあり、内からも外からも恩寵の温熱があることを、弁栄上人は自身の実地体験を込めて伝えている。

掲載

機関誌ひかり第754号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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