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発熱の文

発熱の文 58 年頭法語


大なるミオヤは十劫正覚の暁より、可愛き子を待ち詫び玉うとは、仮に邇きを示せしものの、実には久遠劫の往昔より今時の今日に至るまで、可憐き子の面の見たさ、また子を思う親の心の知らせたさに、番々出世の仏たちを御使しなされて、苦心慇懃に子らに諭して、ミオヤの大悲の御手に渡し玉わんとせし、久遠劫来の思念がかかり、大悲招喚の御声に預かりし田中道士の、至心信楽の心を注ぎて慕わしき吾が大親、ナムアミダ仏と呼ぶ声を、毫も遠からぬ道士の前に在ます大御親は、さぞ、かぎりなき歓喜びを以て之に報答しますらんと信じられて候。
 道士よ。御名を呼べば現に聞玉い、敬礼すればあなたは観そなわし玉い、意に念ずれば、あなたは知り玉い、こなたより憶念し奉れば、あなたは幾倍か深く憶念しくださるるとの導師の指導にして誤りなからば、今現に念仏三昧を修しぬるに、大ミオヤの慈顔に接することを得られぬことと恁な思い玉いそ。また今現に大慈悲の懐ろの裡に在ることをもゆめな疑い玉いそ。此肉体に於いても分娩せられてまだ幾日の間は、母の懐に抱かれて居ながら懐かしき母の容を見ることができぬことにて候。しからばいかにせば吾母の容を見ることを得るに至らんとなれば、啼く声に哺ませらるる乳を呑む外に、はぐくまるるみち之なきことにて候。
 念々弥陀の恩寵に育まれ、声々大悲の霊養を被る。十万億土遥かなりと愁うること勿れ。法眼開く処に弥陀現前す。今宵は大晦日の夜である。世人多くは債鬼をのがるるに苦しみて居り、道士は無始以来の債を除いて、久遠劫来の親に逢いたさに泣いている。道士よ、今宵は無始以来、迷いじまいの大晦日にして、明くれば本覚の無量寿にして無量光なる元旦に候えば、万歳を以て未だ足れりとせず。無量寿のみ名を称えて、道士の聖なる元旦を祝し上げ候。


現代語訳

大いなるミオヤ〔である阿弥陀如来〕は十劫〔という遥か遠い昔、衆生を救いたいという本願を成就された〕悟りの夜明けより、かわいい子〔である衆生〕を待ち詫びて下さっているとの〔『無量寿経』の説〕は、仮に〔大ミオヤが〕邇き〔存在であること〕を示して下さっているのです。しかしながら、真実は久遠劫〔という始まりのない永遠〕の昔より、今この時に至るまで、かわいい子の顔の見たさ、また子を思う親の心の知らせたさより、〔大ミオヤは〕諸仏方をつぎつぎに〔この世に〕お使わしなされて〔いらっしゃるのです。その諸仏方は〕様々な手立てをもって、丁寧に子供達を諭して、大ミオヤの大慈悲の御手に渡そうとする、久遠劫からの〔諸仏方の思念が、この世に満ちているのです。その〕思念が〔今、田中道士〕に注がれ〔ているのです。また大ミオヤの〕大慈悲の招喚の御声にも預かっているのです。田中道士の〔大ミオヤのお育てとお救いを〕真心から信じ願う心を注いで「慕わしき我が大ミオヤ、南無阿弥陀仏」と呼ぶ〔お念仏の〕声を、大ミオヤは遠くからではなく、道士の目の前に在して、さぞ、かぎりなき歓喜をもって、これに報答して下さっておられるものと信じられていくことができます。
 道士よ。〔南無阿弥陀仏と大ミオヤの〕御名を呼べば〔大ミオヤは〕実際にこれをお聞き下さり、敬礼すればあなたはご覧になって下さり、心に念ずれば、あなたはそれを知って下さり、こちらが憶念すれば、あなたは〔その〕幾倍か深く憶念して下さるとの善導大師の指導にして誤りがないのであれば、今現に念仏三昧を修行している〔者の心構えとして、私のような愚か者には〕、大ミオヤの慈顔に接することはできないと思ってはいけません。また今現に〔大ミオヤの〕大慈悲の懐ろの中に在ることも、決して疑ってはいけません。〔霊的な親ではなく〕この肉体〔の親〕についても、胎内から産出されたばかりの幾日の間は、母の懐に抱かれていながら、〔また目は開いていながらも、視力がなく〕懐かしい母の顔を〔はっきりと〕見ることができないのです。そうであるならば、どうすれば我が母の顔を見ることができるのかというと、啼く声にふくませられるお乳を飲む他に、育まれていく道はないのです。
 〔それと同じように、心に〕念々と大ミオヤ〔を慕い、おすがりすることによって、その〕恩寵に育まれ、声々に〔南無阿弥陀仏と啼くことによって〕大慈悲の霊の養いを被るのです。十万億土という遥か〔遠くの存在であると〕愁う必要はありません。法眼〔という眼が、お育てによって〕開かれ、そのとき大ミオヤが現前して下さっておられる〔真実を目の当たりにするのです〕。〔このお便りを認めている〕今宵は大晦日の夜です。世の人の多くは悪業の報いから逃れようと苦しんでいます。〔それとは意を異にして、〕道士は、無始の遠い過去からの悪業の報いを除こうと〔願い、また〕久遠の昔より在す〔霊の〕大ミオヤに逢いたいと願い、〔南無阿弥陀仏〕と泣いていらっしゃる。道士よ、今宵は無始の迷いを終わらせる大晦日にしましょう。〔そして〕明ければ、本より覚りの無量の寿であり、無量の光が〔皎々と輝く〕元旦でありますので、〔長い年月の栄えを祝う〕「万歳」〔の言葉〕では未だ足りません。〔それよりも〕無量の寿〔を表す大ミオヤ〕の御名を称えて、道士の聖なる〔夜明けの〕元旦をお祝い申し上げます。

解説

行者(この文を拝読する者)の信仰の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。
また、現代語訳を、他の弁栄上人の御遺稿を参照しつつ、〔 〕によって加筆し作成しています。今後、より正確な現代語訳作成の叩き台となれば幸いです。

出典

『御慈悲のたより』上巻「二三六」、『田中木叉上人遺文集』三一九頁。大正七年の年末、芝の済海寺にて一週間の不眠不休の単独の念仏修行をする田中木叉上人に宛てた書簡。

掲載

機関誌ひかり第759号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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