光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 60 四種の光明


 世の人々を見るに、受がたき人身、遇がたき仏法にあうとも、仏の光明を仰ぐに由なく、闇きよりくらきに入りぬひとびとのあわれさよ。
 仰ぐべきかな如来の光。我々は五塵六欲のちりの繁き中に六根常に心を汚しつつあり。若し如来清浄の光によらずして、いかでかこの身心を洗濯することをうべき。一心に心を制して如来清浄の光明を憶念し奉れば、六塵にまみれし心も自らきよく潔よく成りぬべし。
 我々の感情はもろもろの煩悩つねに胸にもえつつ、己れ己をなやまし、もだえつつあるなれども、如来歓喜の光明に霊極りなき歓楽は感ぜらるるなり。是またおもえば、おもえば、ますます法喜禅悦の楽しみは、如来を憶念する胸のうちより湧出為なり。
 智恵の光明によりて日々に触目対境すべての事につきて、真理の発見することをうるは偏に是如来智恵光の賜なり。
 不断光明は悪しき我々の意志を転じて正善に向わしめ、ますます聖に進ましむるは、是ぞ光明の力なり。あら、ありがたや。女史よ。離れ玉うなかれ。斯如来の光明のなかを。


現代語訳

世の中の人々を見ると、受けることが難しい人の身として生まれ、また出会うことが難しい仏法に出会えている人も、如来さまの光明を仰ぎ求める縁を結ぶことができず、暗きところより、なお暗き方へと陥っていく人々は、なんとあわれなことでしょう。
 〔そんな人々に〕仰ぎ求めていただきたいのです、如来さまの光を。我々は*五塵*六欲の塵が充満した中で生活し、〔眼・耳・鼻・舌・身・意の〕六根を通して、常に心を汚しているのです。もし如来さまの清浄の光に頼らなければ、他にどのような方法によって、この身と心を洗濯することができるのでしょう。一心に心を制して、如来さまの清浄の光明を憶念すれば、六欲の塵にまみれた心も自ずから清く潔く成っていくのです。
 我々の感情は、諸々の煩悩が常に胸中に燃えており、己が己を悩まし、悶え〔苦しめ〕ているのですが、如来さまの歓喜の光明に〔照らされることにより、〕極まりない霊的な歓喜を感じることができるのです。この〔光明を〕また念えば念うほどに、ますます霊的な歓びと楽しみが、如来さまを憶念する〔者の〕胸中より〔泉のように〕湧出するのです。
 〔如来さまの〕智恵の光明によって、日々、目に触れるもの、対峙する境遇など、すべての事から真理を発見することができるようになるのです。これは偏に如来さまの智恵の光の賜なのです。
 〔如来さまの〕不断の光明は、悪しき我々の意志を転じて正善に向わせ、ますます神聖に進ませて下さる。これぞ光明の力です。ああ、なんとありがたいことでしょう。女史よ。〔決して〕離れないようにして下さい。この如来さまの光明の中から。

解説

行者(この文を拝読する者)の信仰の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。

*五塵―塵が物を汚すように煩悩を起こさせて人の心を汚す五つのもの。色、声、香、味、触の五つ。
*六欲―眼・耳・鼻・舌・身・意の六根に関係する欲望。

出典

『辨栄上人書簡集』「一二四」、『御慈悲のたより』中巻「六〇」、加野操子女史宛。

掲載

機関誌ひかり第761号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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