光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 71 歓喜光


 感情を融合し、霊に安立し霊福を感受せしむるを歓喜光と名づく。感情とは人の心理作用の中に苦楽を感ずる精神作用にして、喜怒哀楽、愛憎の如きは之を感情と名づく。人の心理活動中、最感の度の強きものなり。人の天性は苦悩・恐怖・憂悩多し。其本、天性として幸福を求め、感覚の快楽を追求するも、幸福獲得し難く苦毒を感ずること多し。是自己の天性の幸福主義が致す所なり。
 宗教的感情には罪悪の多きを感ず。胸中の毒蛇、動もすれば憤悩して毒気をはき、忿恨・妬忌・諂曲・嬌慢等の罪悪、胸中に潜伏し、其刺激に随って激昂し顕動す。自己の罪悪を嫌忌して如来に帰命し、一たび転じて、如来の霊海に帰入する時は、無限の愛に融合し、歓天喜地、如来真我の中に投じて主我没亡し、入我々入、如来真我の中に我あるを認む。是よりは、常に情操、如来の霊に安立し、平和安穏にして新鮮なる活気に養われ、霊福を感じ歓喜に充さる。
 『経』に、「如来斯経を説給わんとする時、諸根悦予し姿色清浄にして光顔巍々たる」霊相を示したるは、内全く如来の霊に充たる内容が表に現れたるなり。仏陀は常に真の如来の、無限の霊に安立するが故に、いかなる逆境に遇うも姿色変ずることなきは、たとえ肉身に苦悩あるも、内容の霊福の強きが故に、外部の苦を感ぜざるなり。故に感情は無限の愛を全く感ずる時は、外部の苦は敢て苦とするに足らず。深く内容に感受すべき霊福の原動力を歓喜光と名づく。


現代語訳

〔私たち衆生の〕感情を〔如来の慈愛に〕融け合わせ、光明中に生活させ、霊福を感受させて下さる〔光明を〕歓喜光というのです。感情とは、人の心理作用の中で、苦楽を感じる精神作用であり、喜怒哀楽、愛憎を感情というのです。人の心理的な活動の中で、最も感度の強いものがこの感情です。人が〔生まれつき備えている〕天性〔の感情〕は、苦悩・恐怖・心配などに満ちています。〔その〕天性は〔盲目的に〕幸福を求め、感覚の快楽を追求するものの、幸福を獲得することができず、苦しみに満ちています。その〔苦しみの〕根本の原因こそ、自己の天性の幸福主義にあるのです。
 〔その天性の感情に対して〕宗教的感情〔つまり、光明中に育まれつつある感情は、自らの〕罪悪が多くあることを痛感するのです。胸中の毒蛇、ややもすれば怒りや苦悩の毒気を吐き、〔また〕恨み・妬み・こびへつらい・傲慢等の罪悪が胸中に潜伏し、〔外界からの〕刺激に随って激しく興奮し、〔心中の罪悪の毒が表情や言動として〕顕わになります。〔そのような〕自己の罪悪を忌み嫌い〔何とか救い導いていただきたいと〕如来に帰命し、心機一転、如来の霊海に〔自己を〕帰入するときは、無限の愛に融合し、天を仰ぎ、地に伏して喜び、如来の真我の中に〔自己を〕投じ、〔迷いの〕主我が無くなり、入我我入、〔つまり〕如来の真我の中に我があることを自覚することとなります。その心境に至れば、常に情操は如来の光明中に生活し、平和安穏となり、新鮮な活気に養われ、霊福を感じ歓喜に満たされるのです。
 『無量寿経』の「お釈迦様が、この御経をお説きになられたとき、〔眼耳鼻舌身意の〕諸根が悦びに満ち、その御姿は清浄であり、光輝く尊顔は、雄大でおごそかであられた」との霊相〔を伝える〕説示は、阿弥陀如来の霊が〔お釈迦様の〕内に充ち、その内容が表に現れておられるのです。お釈迦様は、常に阿弥陀如来の無限の光明の中に在すのです。だからこそ、いかなる逆境に遭遇しても、表情など、そのお姿を変えることなく、たとえ肉身に苦悩があるときでも、内容の霊福が強いために外部の苦を感じないのです。このように、〔衆生の〕感情は、〔もし〕無限の愛とよく感応するならば、外部の苦は敢えて、苦と感じるほどのものではなくなります。深く〔あなたの〕心の内面に感受する霊福の原動力、〔これ〕を歓喜光というのです。

解説

この文章の前半では、天性の盲目的な幸福主義では幸福に至れないことを伝え、後半、歓喜光による霊化の流れを伝えている。罪悪の自覚→如来に帰命(帰入、投じる)→如来の慈愛と感応→歓喜(霊福)。弁栄上人も、先達の善導大師や法然上人と何ら変わること無く、罪悪生死の凡夫の自覚、そして懺悔を強調している。ただし、この光明への道に誘引するため、来世へと通じる、現世の利益(霊福)を、時機相応させるため、より詳細に具体的に伝えているのである。

出典

『人生の帰趣』岩波文庫版二一四頁

掲載

機関誌ひかり第772号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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