仏智見を開き、聖霊を啓示し、真理に悟入せしむるを智慧光と名づく。
知力とは差別を知るを云う。普通、知力とは現象界の万有を理解し弁別する等の知的作用なり。今いう智とは、正智見を開きて如来真理の性を悟達し証入する処の知力にして、即ち如来の真身と心等を知見証知する能力なり。人の天性は無明の垢質ありて本より如来の真身心中に在りながら未だ真相を知見する能わず、感覚界のみを認識す。
如来の身心は一大霊態にして、身とは体なり、心とは象なり、即ち絶対精神と及び一切慧なり。「如来は法界身、入一切衆生中」とは、如来の一大心霊中の衆生心霊なれば、各々の個人の心霊の窓を開く時は個々は譬えば一大空間の中に在る窓を開く時の如し。
如来の霊に感じ、正智見開発する、即ち心眼開く時は、如来の身土を観見することを得。是を三昧定中の観見と名づく。また聖霊を感じて真理を啓示せらると名づく。
現代語訳
〔念仏者の〕仏の眼を開き、聖霊を〔念仏者の心想に〕啓示し、真理を悟らせて下さる光を智慧光というのです。知力というのは〔相対的に物事を〕区別して知ることをいうのです。一般的に知力とは現象界〔つまり、この宇宙や地球上〕の万有を理解し、区別し解説するなどの知的な作用(力)をいいます。今ここでいう〔智慧光の〕智とは、仏の眼を開く〔ことによって迷いから脱し〕、如来の真理の性〔、つまり真実の自己〕を自覚するところの知力、すなわち、如来の真身やその心などを知見し、証知する能力をいうのです。人の天性は、〔真実を知らない〕無明という垢に覆われていて、元より如来の真実の身と心の中で生活しているにもかかわらず、未だ、〔仏の眼が閉ざされ、心霊界の〕真相を知見することができず、感覚界(現象界)のみを認識しています。
如来の身と心は、唯一の大いなる霊態であり、その身は本体(体)であり、心とは、その内容(象)です。すなわち〔如来の〕絶対的な精神(身・体)と〔如来〕の智慧(心・象)のことをいうのです。〔『観経』に説かれる〕「如来は法界身、入一切衆生中」というのは、如来の一大心霊の中に、衆生の心霊が存在し、〔もし〕個々の心霊の窓を開いたならば、〔如来の一大心霊とつながるのです。〕それは、譬えば、個々〔の部屋〕の窓を開くとき、一大空間〔である宇宙〕とつながるようなものです。
如来の霊を感じ、仏の眼、すなわち心眼を開くときは、如来の姿と〔その国土である〕浄土を観見することができるのです。これを三昧の実践によって〔得られる〕知見というのです。また〔キリスト教の表現をもって換言すれば、〕聖霊を感じ、真理を啓示していただくという〔表現になる〕のです。
解説
今回は、如来から衆生に注がれる四つの光、清浄光・歓喜光・智慧光・不断光の内、私たちの無明の心に智慧を授けて下さる智慧光について解説している箇所です。心眼の窓を閉ざしている私たちは、肉眼によってのみ現象界を見、知性によってのみ世界を認識していますが、この智慧光のお育てによって、心霊界(聖霊・如来の身と心など)を知見することができると伝えています。それは仏教の表現では、「如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想の中に入りたまう」(『観経』)であり、それはまた、キリスト教でいうところの、「聖霊を感じ」、「真理を啓示」と同様のことであると解説しています。こういった解説からも、一如なる真理を伝えようとする弁栄上人の意志を感じ、また、智慧光に育まれた弁栄上人であるからこそ明言できる解説といえます。出典
『人生の帰趣』岩波文庫版二〇七頁掲載
機関誌ひかり第773号- 編集室より
- 行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
- 現代語訳の凡例
- 文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
- 付記
- タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」