山本 サチ子
昨夜から降り出した雨が午前7時過ぎの今も降り続いている。小雨は紫陽花に良く似合う。薔薇・紫露草・撫子・矢車草の花々にも命の水を注いでいる。その様から雨天が少しも鬱陶しい天気ではないことに気付く。恵みの雨に感謝。さあ、今日はどんな一日を過ごそうと考え、まず読書から? と思った次の瞬間、愛猫が「じゃらし棒」をくわえてきて私の目前に置き、手でトントンと叩いた。今日も楽しく忙しい一日が始まりそうだ。
〈当たり前とは〉
語源由来辞典によれば「当たり前」には、2通りの意味があります。「①わかりきった、言うまでもないこと。当然。 ②なんの変ったところもないこと。あるいは、当たり前《「当然(とうぜん)」の当て字「当前」を訓読みにして生まれた語 》そうあるべきこと。「当たり前」の意味と記されている。
また『当たり前』…有ることが常、『有難い』…有ることが難しい、『当たり前』の反対語は『ありがとう』。
『ありがとう』の反対語は『当たり前』です。「ありがとう」は漢字で書くと「有難う」となる。
いずれにしても私たちは毎日のように「当たり前」という言葉を普通に使用している。その日常的に使っている「当たり前」の言葉だが、いつもためらいなく普通に話している言葉だ。この当たり前という言葉の意味を考えてみると字引には書かれていない深い意味があるのではないかと思う。「当たり前でしょ。女性なのだから。当たり前でしょ。男なのだから。当たり前でしょ。動物なのだから。当たり前でしょ。外国人なのだから」等あらゆる箇所に当たり前が登場してくる。この「常識」や「普通」とする当たり前は、どこまでが当たり前なのか。こんなに難しい内容を持つ言葉もめずらしいと思う。
なぜか少しも、当たり前が当たり前でない気がしてくる。当たり前を私たちは安易に使っているのではないかと思う。
考えてみると本当は当たり前などということばに当てはまる事象は存在しないのではないかとも思えてくる。人は何かを伝えようとするときに、もっと言葉を尽くす必要があるのではないでしょうか? そうすることで同じ当たり前でも優しさが加わってくる気がする。言い方によっては、悪意さえ含んで聞こえる場合もある。もし「君がやって当たり前なのだ」と言った場合に、言われた本人はあまりいい気持ちがしないことがある。当たり前の言葉を使うときは、もう少し相手の気持ちを考えて使用したら良いのではないかと思う。謙虚な気持ちで接すれば同じ「当たり前」という言葉も、軟らかさを増すのではないかなどと、とりとめのないことを考えてしまうのである。
空気、水、太陽、宇宙これらも私たちは普段あまり意識せずに「当たり前」に毎日を過ごしている。人間を取り巻く自然環境も今まで当たり前と思い生活してきていたが、言葉の意味を考えてみたら当たり前が当たり前でないのではないかと思われてきた。これからはもっと当たり前を意識した生活をしていきたい。
〈感謝〉
こんな戯言を考えて庭の草むしりをしていたら雑草で鬱蒼としていた庭が綺麗に心地よくかたづいた。当たり前だよ、草取りをしたのだから。いや当たり前じゃなく「有難い」ことだと思った。南無阿弥陀仏
「当たり前」の言葉の中には「有難い」と思う気持ちが込められているのだろうかと考えてみると、込められていない気がする。なぜならば、当たり前なのだから。「当たり前」の言葉の中には相手の人物や物事に対する有難さは感じられない。言葉と言うものの持つ意味が解釈の仕方で大きく変わって来る。これまであまり深く考えてこなかったが言葉の持つ意味を多方面から考えていくことが大事であると思う。
言葉の持つ意味だけではない。これまで当たり前を当たり前として使用してきたが、当たり前の言葉を突き詰めて考えるとその中には「感謝」や「尊ぶ」の意味で使用してはいない。むしろ傲慢さが見え隠れする場合もある。尊厳などとは正反対になると思う。
娘宅に行ったときのこと、私は二人の小学生の孫と愛犬モコちゃんを含めて、かくれんぼをした。私は上手にかくれたつもりだったが、モコちゃんにすぐに見つかってしまった。私が「モコちゃん凄いね」と言ったら孫の一人が「当たり前だよ犬だもの」とすかさずに言った。
〈結び〉
何の変哲もないような毎日ではあるが日常の仕事を続けているとその中でふと気が付くことがある。それはちいさなことの様だがとても大切なことなのかもしれない。
最近当たり前とは何か、を考え始めたら当たり前なんて最初から存在しなかったのではないかな? とさえ思えてきた。それは人の気持ちだったり、動物の世話であったり、植物の成長、等からまで見えて来るものがある。そこに気が付くとこれまで当たり前と考えていたことが、実はそうではなかったと思うのだ。当たり前を「当然」と捉えた場合は、ごく普通の事になる。一方で反対に「感謝を込め、有難い」と受け止めた場合にはそこから「傲慢」さや自分勝手な「自惚れ」が消えていく。人間の傲慢さは他人を苦しめ、その傲慢さ故、最後にはそれが自分の苦しみとなり自分に還って来る。そんな風に思う。
「当たり前」の言葉がきっかけとなり、言葉が持つ表面の意味だけではなく多方面から考えて言葉を使用することが大切であると思った。雨上がりに、庭の草むしりをしながらとりとめのないことを考えていたら愛猫がそばにきて私の足を甘噛みした。お腹が空いた合図だ。そうだ朝ごはんをあげることを忘れていたようだ。失礼しました。 合掌