光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 39 太陽を通じて


 宗教界の偉人なるものは悉く如来無量光の光明によりて霊的に活るものなり。然らばいかにして霊界の太陽なる無量光如来の光明に摂められて、例えば鶏卵の孵化する如くに、我らが一心に真ごころに念仏せば、必ず心霊の卵は霊化して活ける信仰と成るに至らん。
 夫れには至誠熱心を要する事にて候。またつねに太陽を仰ぎつつ、太陽を通じて是れ我らが如来の顕現なりと念ずる時は、太陽を通じて如来を信ずることを得ん。南無阿弥陀仏を唱うるは絶対人格の御名なれば、御名を称うれば自づと人格的の尊体を念ずるにいたる。絶対人格常に我らが信念の前に在ませば、我らは之に対して尊崇の念、信頼の心、発らざるを得ぬ。是聖名を称えて人格的如来に接するの道にて候。
 されば聖名を通じて霊格に接し玉えよ。


現代語訳

 宗教界の偉人方は皆ことごとく、阿弥陀如来の無量の光明によりて、霊的に活きているのです。そうであれば、どうすれば、霊界の太陽である〔その〕無量光如来の光明に摂め取られ〔霊的に活きていくことができるのでしょうか。
それは〕例えば、鶏卵が〔親鶏に温められて〕孵化するように、私たちも、一心に真ごころを込めてお念仏すれば、必ず〔如来の光明によって温められ、〕心霊の卵は霊化して、活ける信仰となるに至るのです。
 その〔霊化〕には誠の心と、熱心さが必要です。また常に太陽を仰ぎつつ、太陽を通じて、「〔この太陽は〕私たちが〔信じ慕うところの〕如来さまの顕現である」と念じる時は、〔この輝く〕太陽※注1を通じて如来さまを信ずることがきるようになります。「南無阿弥陀仏」を称えるのは、絶対人格者〔である如来さま〕の御名(みな)でありますので、御名を称えれば、自ずと人格的な〔如来様の〕尊いお姿を念ずるに至ります。絶対人格者は常に私たちの信念の前にいらっしゃいます。ですから、私たちはそれに対して尊崇の念や信頼の心が起こらない訳がないのです。〔念仏三昧とは〕この御名を称えて、人格的な如来さまと〔常に〕接していく道なのです。
 ですから、御名を通して、〔如来さまの〕霊格に接して下さいよ。

解説

注① 宛先の宮川氏は医者である。弁栄上人は学者や医者などのいわゆるインテリ層には、こういった眼に見えて畏敬しやすい、天地自然(太陽)を端緒として、念仏の道へと誘引することがある。

出典

『御慈悲のたより』上巻74~75頁、『ひかり』平成31年4月号8~9頁参照。福岡県の医者、宮川久米次郎宛ての書簡。

掲載

機関誌ひかり第739号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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