光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 40 鳴き通す虫


忘れまじきは人事ならぬ我身の一大事。早晩消え果つべきに定りある此身の為には少の出来事でもなかなか捨て置がたしと云いながら、永遠に捨ることなき我心霊の為に、永恒の光のなかに常住の幸福を求むる道の為には、よそ事にして極楽の楽しき園にゆく道に心の足ははこびやらで、ただ日々夜々に三毒煩悩に心を焼かれ五塵六欲に神をけがし、如来より修行の為に与えられたる光明の時間を、ただうかうかと闇の中に暮してしまうとは、いかにがんぜなき子供とは申ものの、まことに心なき我らかなと自ら己を責て、このまま再びあわれぬきょうの日を空しく過してはと存じ候まま、我同胞と仰ぎ候方の為に、此貴重の光陰をミオヤさまの思召のほかに浪費し已りぬればいかに残念と存じ候まま、念の為ながら申進候。夜もすがら鳴き通す虫さえあるに、我らは永遠に救わるる処の称名を称うるに、ものうきとはいかに愚者よと己を剋めて候。


現代語訳

 〔決して〕忘れてはならないことは人ごとではない我が身の一大事。遅かれ早かれ、〔この世から〕消え去っていくことが定まっているこの我が身の〔俗事の〕ためには、些細な出来事でもなかなか捨て置くことができないといいながら、永遠に捨てることのない、我が心霊のため、〔言い換えれば〕永遠の光の中に永遠の幸福を求むる〔聖なる〕道のためには、人ごとにして〔しまっているのです。また、〕極楽の楽しき園に往くための道に、心の足を運ばせることなく、ただ日々夜々に〔貪り・怒り・愚かさの〕三毒の煩悩に心を焼かれ、〔色・声・香・味・触の〕五つが塵となり、〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕の六つが我欲〔と結びつき、その〕心を汚し、如来より修行の為に与えられたる光明の時間を、ただうかうかと闇の中に暮してしまって〔いるのです。そのような者〕は、物事の是非がわからない〔心霊的な〕子供とはいうものの、「まことに〔道を求める〕心がない私である」と自ら己を責め、〔さらに〕このまま再び出会えぬ今日という日を空しく過しては〔ならない〕と思い〔至ることを願うのです。ですから、〕我が同胞と仰ぐ方のために、この貴重なる光陰を、御親〔である如来さま〕の思し召しではないことのみの浪費で終わったならば、なんと残念なことかと思うままに、念のためながら申し上げております。夜もすがら鳴き通す虫さえいるのに、我らは、永遠に救われるところの称名を気が進まずおっくうであると思うことは、「なんと愚かな者であろうか」と〔自らに言い聞かせ、〕己に打ち克って参りましょう。

解説

注① 宛先の宮川氏は医者である。弁栄上人は学者や医者などのいわゆるインテリ層には、こういった眼に見えて畏敬しやすい、天地自然(太陽)を端緒として、念仏の道へと誘引することがある。

出典

『御慈悲のたより』上巻94~95頁、神奈川県鎌倉の湯地家宛。当主、湯地定監は乃木希典の妻、乃木静子の実兄。

掲載

機関誌ひかり第740号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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