光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 50 天地の気にかなう


 歓喜光裡に新年を迎え、無量寿の聖名を称えて寿ほぎ奉つり候。
 寒風肌にさむき夜も、あたたかなる大ミオヤの慈悲のふところにすむこころよさ。
 其のちはいかが在らせ候哉。きょうはよき御天気とおもえば、また翌日は風がふき出す。風が静かに成たかとすれば、また曇となる雨となる。ほんとうにうるさき世といわばいうものの、其中にしゃばの変化きわまりなき趣むきがあるのである。此世の中に生存するほどは、この心配が漸くかたづいたとおもえば、またつぎに一の心をつかわざればならぬ事がわき出して来る。ほんとうにいつに成たならば、何のこころがかりもなき、しんにのどかなる心の春に成のであろうと、大かたのひとびとはおもうのであろうけれども、それは風も雨もくもりもあつささむさもなき一年中をのぞむようなものなので、無理な要求なのである。風も雨もあつささむさもみな常の天地の働としてしなければならぬので、只人間の都合や勝手のために天地は働らきなして居る〔の〕ではない。故に自分の方から天地の気にかなうようにしてゆかなくてはならぬと存候。


現代語訳

 歓喜光裡に新年を迎え、無量寿の聖名〔南無阿弥陀仏〕を称えて、祝福の言葉と致します。
 〔たとえ〕寒風が吹く寒い夜であっても、温かなか大ミオヤのお慈悲のふところにすむこころよさ。
 その後はいかがですか。今日はよき天気と思えば、また翌日は風が吹き出します。風が静かになったかと思えば、曇りとなり雨となります。本当にうるさき世〔である〕と言っても、そこに娑婆世界の変化すること限りがないという趣きがあるのです。この世の中に生存する間は、心配がようやく片付いたと思えば、また次に一つの心を使わなければならない事が湧き出してきます。
 本当にいつになったら、何の心変わりの無い、真にのどかな春の心になるのであろうかと、多くの人々は思うのでしょうけれども、それは風も雨も曇りも暑さ寒さもなき一年を望むようなもので、無理な要求なのです。風も雨も、暑さ寒さも、みな常に天地の働きとして、なければならないものなのであって、ただ人間の都合や勝手のために、天地は働きを為しているのではありません。ですから、自分の方から、天地の気候に適うようにしてゆかなくてはいけません。

解説

行者(この文を拝読する者)の信仰の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。
また、現代語訳を、他の弁栄上人の御遺稿を参照しつつ、〔 〕によって加筆し作成しています。今後、より正確な現代語訳作成の叩き台となれば幸いです。

出典

『ひかり』四三七号八頁を底本とした。ただし、『辨栄上人書簡集』四四一頁、『御慈悲のたより』下巻三〇頁、『ミオヤの光』縮刷版一巻一五六頁、『同書』四巻一一七頁にも掲載されている。

掲載

機関誌ひかり第750号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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