光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 51 霊乳(ちち)


 私どもには霊性と肉体とがありて、肉体は人の子で、霊性は如来の子である。肉体も母親の乳汁にて養われるように、霊性は如来の光明にて育てられるのである。肉体も赤児がはじめて産声を揚げたときには、母の顔さえ見えねども、なく声をたよりに母の乳房をふくましてくれる乳をのむから、次第に成長するごとくに、私どもの霊性も、如来の光明名号の真理を聞き、如来は実に私どもの霊の御親であると、しかと自覚した時が、ちょうど霊の子が産まれたので、真から称名の声が発するようになったのが霊性の産声である。
 称名の声は発するようになったが、未だ御親の慈悲の聖顔は胆めぬ。しかれども称名の声するところに如来の霊乳は与えてたまわる。すなわち念仏心に如来の光を感受するので、それが霊を養う食物である。それより漸漸に光明を受くるだけに霊性がますます発達し、ついには如来慈悲の聖容を拝めるようになる。またいつも御慈悲の懐に安住しつつある身と想わるる。なつかしい親様と寝てもさめても共にありて離れぬ想いである。そうすると弱き私どもの心の生活に非常に力となる。


現代語訳

 私どもには霊性と肉体とがあって、肉体は人の子、霊性は如来の子である。肉体も母親のお乳にて養われていくように、霊性は如来の光明によって育てられるのである。肉体も赤児がはじめて産声をあげたときには、母の顔さえよく見えないが、泣く声をたよりとして母が乳房をふくませ、その乳をのむからこそ、次第に成長していけるように、私どもの霊性も、如来の光明名号の真理を聞き、如来は実に私どもの霊の御親であると、しかと自覚したときが、ちょうど霊の子が産まれたときであり、真から称名の声が発するようになったのが霊性の産声である。
 称名の声は発するようになったが、未だ御親〔である如来〕の慈悲の聖なる御顔は拝むことができない。しかれども称名の声するところに如来は、霊的な乳を与えて下さる。すなわち〔私たちの〕念仏心が、如来の光を感受し、それが霊を養う食物となるのである。それよりだんだんと〔念仏を称え〕光明を受けていくほどに霊性がますます発達し、ついには如来の慈悲のお姿を拝めるようになる。またいつも御慈悲の懐に安住しつつある〔我が〕身であると思われてくるのである。なつかしい親様と寝ても覚めても共にあり離れることがないとの思いである。そうすると弱い私どもの心の生活に、非常なる力となるのである。

解説

行者(この文を拝読する者)の信仰の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。
また、現代語訳を、他の弁栄上人の御遺稿を参照しつつ、〔 〕によって加筆し作成しています。今後、より正確な現代語訳作成の叩き台となれば幸いです。

出典

『御慈悲のたより』中巻十二頁。猪狩家宛の書簡。

掲載

機関誌ひかり第751号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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