この光明によりて自己の精神を霊化するにあらざれば、人生の真の幸福は得らるるはづなかるべし。
人の苦と感ずるも楽と観ずるも帰する処は其人々の精神にあり。他人より観れば、彼はいかに苦しからんとおもうも、其人は内心平和に満足に日をくらすものあり。また他人が見なす処は、彼はいかに幸福ならんとおもうも、其自身には自己の心より悩みになやみの子を産み、憂に憂の友をあつめて我が胸は安からず日をおくる人あり。而していかに悩み多き人も、また心安からぬ人も、自心を力としてはとても平和に入ることは能わぬ故に、そこで偉大なる力を有する阿弥陀如来に帰して、而して如来の光明によりて自己の精神が霊化せられ、ここに至りて初めて真の平和、真の歓喜は得らるべし。
自己の心にして霊化する時は外界よりいかなる境遇に臨んでも、逆境に立ちても、たとい心のなやみあるようにしても、心の奥の方にかがやきつつあるみ光りは、大に慰籍の感ずるあり。悩の奥にも楽あり、憂の底にも安き光の感ずるあり。
されば求めよ、聖き光を。発得せよ、聖き光を。
現代語訳
この〔如来の〕光明によって自己の精神を霊化しなければ、人生の真の幸福は、得られる筈がありません。人が苦と感じるのも楽と感じるのも、結局は人それぞれの精神によるのです。他人から見れば、彼はとても苦しい状況であろうと思っても、その人は内心、平和と満足の日を暮らしているということがあります。また他人が見るところ、彼はとても幸福であろうと思っても、彼自身は、自己の心より、悩みより悩みの子を産み、憂いより憂いの友を集めてしまい、その胸中は不安に〔満ちた〕日を送っている人もいます。そのような悩み多き人も、また心が安らかではない人も、自らの心を力としては、とても平和〔な心境に〕至ることはできないのです。それ故に、偉大なる力を有する阿弥陀如来に帰依して、そして如来の光明によって自己の精神を霊化していただくのです。ここに至って初めて真の平和、真の歓喜が得られるのです。
自己の心が〔如来の光明によって〕霊化するときは、外界がいかなる境遇であっても、逆境に立っていても、たとえ心の悩みがあるようなときでも、心の奥の方に輝きつつある〔如来の〕光明によって、大いに慰められ、〔その慈愛を〕感じるのです。悩みの奥にも楽しみがあり、憂いの底にも安らかなる光を感じるのです。
されば求めましょう、聖き光を。実感し体得しましょう、聖き光を。
解説
行者(この文を拝読する者)の信仰の発熱を促す経典や念仏者のご法語をここで紹介していきます。また、現代語訳を、他の弁栄上人の御遺稿を参照しつつ、〔 〕によって加筆し作成しています。今後、より正確な現代語訳作成の叩き台となれば幸いです。
出典
前号のつづき。『御慈悲のたより』上巻「五十三」、湯地照子様宛。掲載
機関誌ひかり第758号- 編集室より
- 行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
- 現代語訳の凡例
- 文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
- 付記
- タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」