光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 「同級会」

山本 サチ子

携帯電話を取ると聞き慣れない声がする。高校時代の同級生からの連絡でした。三週間ほど前に同級会の案内状が届いていたのです。私はハガキに欠席として返信しました。これまで何度か同級会は開かれていたのですがいつも参加できませんでした。所用に追われ、今回も懐かしい友人達とは語り合うことが出来ないと思っていたのです。

ところが、三カ月程前に帰郷した際、高校卒業以来一度も逢っていない友人が私の実家を訪ねて来たのです。

私は福島の姉(次女)の法要で帰省していました。電話をくれた彼とは高校卒業以来の再会です。そう言えば彼は卒業の頃、気象庁の入社試験にパスしたと話していました。記憶が蘇る懐かしい級友の一人です。

法要の当日、彼は我が家を尋ねてきました。私は高校生だった頃の彼のイメージしかないため最初は本人かどうか分かりませんでした。小柄な彼を探していたのに彼はまったく体型の違った人となっていたのです。彼は就職してから身長が十センチも伸びたとのことです。私達は何十年ぶりの再会でしたが昨日まで逢っていたような調子で話すことができました。隣村の出身であった彼は、小学生の頃、私の姉(長女)の教え子でもありました。姉が今は施設で暮らしていることを伝えると、彼は 「そうかぁ」と呟き、大きな呼吸を一つしました。

その様子から長い年月を感じました。姉と私は年齢差があり、いつもやりづらさを感じていました。ともあれ、隣村の住人であった彼とまたこうして会うことが出来たのです。彼はたくさんの本や写真を抱えてきました。写真は先日の同級会のものです。そこには懐かしい級友や担任の顔があり、時の流れを感じました。

〈仏教とは何か〉

彼は定年後に生まれ故郷に帰って来たのです。それまでは全国の気象庁を、あちこち回る転勤族だったとのこと。彼は時間ができたのでやっと落ち着いて本が読めるようになったと言いながら持参した数冊の本を取り出して私に見せました。それらは仏教書が殆どでした。
「これ全部読んだの…」
と問う私に
「ああ読んだよ、でも信じられないんだよ」 「人は死んだら本当に自分の身内に会えるのか? どこへ行くのか? 色々本も読んだが分からない。」

何度もそのように呟く彼に、私は菩提寺のある寺のお坊様とお話しするようアドバイスをしてみました。けれど、彼は
「駄目だよ! そのお坊さんは、趣味にばかり夢中だから」 

そのお坊様を私も子供の頃から知っていたので
「あの方は聡明な方だし、そんなはずないよ」

しかし、彼は
「こころなんだよなぁ。説法にこころがないんだよなぁ」…

彼は真言宗の檀信徒であり、定年後は畑を耕し、山菜採りなどをしながら妻と二人で過ごしている。彼は仏教をもっと知りたい。だが自分がこれだと思う良書に出会っていないと話す。『阿弥陀経』を何度も読んでみたが解らない。信じられない。…を連発した。私は時間もなく、新幹線の時刻も気になっていたので『無量寿経』も読んでみたらと言い残し別れた。

〈友人からの返事〉

数日後、『無量寿経』を読んだがどうも分からない。と彼から電話がありました。その夜、私は迷惑かと思いつつも大南龍昇先生に連絡を入れ、どうしたら良いか相談をしたのです。その時、実は大南先生は身内の方が大変具合が悪い時にも拘らず、対応して下さったことを後で知りました。そんな素振りを少しも見せないで相談に乗っていただいたことに感謝の気持ちで一杯です。

大南先生は『阿弥陀経』の「倶会一処」のところをもう一度じっくり読むように、お伝えくださいとのことでした。

私は早速『阿弥陀経図絵』の16~17頁にアンダーラインを引き、メモを書き送付しました。そしてもう一冊、『山崎弁栄絵物語』も同封しました。読んでくれます様にと願いを込めて郵送する。だがその心配は無用でした。それは彼からの電話ですぐに分かりました。「山崎弁栄絵物語」の二箇所の疑問を指摘してきたからです。私が訂正用のシールを入れ忘れたことがすぐに知られてしまいました。彼をあなどれないこと、そして自分の姿勢を後悔しました。そのことで彼がしっかり講読してくれていることも分かりました。彼の真剣な態度に私はすかさず岩波文庫として出版されている『人生の帰趣』を読んでほしいとお願いしました。

私は手元に『人生の帰趣』を持ってはいましたが是非、彼に書店で自分の手で購入して貰いたかったのです。安易に入手するよりも苦労をして手に入れたら愛着も湧くかなと思いました。彼からの電話が入ったのはその二日後です。
「書店から『人生の帰趣』が届きました。時間がかかりそうだが読んでみるよ」…と。

〈結び〉

それから二カ月ほど経ちました。彼からまだ『人生の帰趣』の読後感想の連絡はない。しかし私は気落ちしていない。彼は幼い頃に教職に付いていた両親を亡くしている。村役場では残された彼を育てるために養育者を募集しました。養育者に家に同居して貰い、彼はそうして大人になり今、「浄土で生みの親の両親に本当に会えるのだろうか?」と『阿弥陀経』を読み懸命に考えている。その気持ちを思うと力になりたいと思う。

ですが、私には「読書だけでは真実が見えてこないよ」、そして、「南無阿弥陀仏を称えて」としか言えません。そんな不甲斐ない自分に「なんとかしなさい」…と心の声が聞こえてきます。

また一方で、彼がお坊様の説法にこころを求めるのならば、読書にも優しいこころを入れて読むことが肝心なのではないでしょうか?

そんなことも伝えたい。とにかく、彼に伝えたい事がたくさんある。     

合掌

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