光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 ひとりでは生きられない

石川 ゆき絵

 「人に迷惑をかけないように」と子どものころ父に言われて育った。『迷惑』の中身は、人の手をわずらわせる・誰かのじゃまをする・ひとさまに物資を乞う、などだったと思う。よそさまの協力がなくとも自分の力で生きる強さを持て、という教えだと理解するが、友だちの家でおやつをごちそうになることも禁じられ、お年玉も「お返ししなければならないものだから」と取り上げられていたので、よその子がうらやましかった。
 おそらく、父自身も親にそう教育されて大きくなったのだろう。父は産まれたときから片膝が曲がらなくて、障害者手帳なるものを持っているのだが、それを利用して優遇を受けようとしない人だった。65才で地方公務員を退職したときにようやく、もうお世話になってもいいだろうと障害者手帳を使って高速道路を半額で利用するようになった。その使用目的は、孫と遠くに魚釣りに行きたいから。
 そんな父に育てられたわたしがどんなふうな大人になったかというと、高校を卒業してすぐ実家を離れ上京したこともあり、仲間たちと面白おかしく持ちつ持たれつ呑気な若者時代を過ごす成人となった。時代はバブルまっただなかの東京、仕事は選び放題、お金はそのとき持っている者が払えばいいという脳天気な考え方をしていた。友人が一万円を必要としていて、自分の財布に八千円しか入ってなくても全部あげるような感じ。逆も然り。実に刹那的に生きていた二十代前半。
 時代背景だけでなく、わたし自身の気性も大いに関係していたのだと思う。言葉は額面通りに受け止め、その裏側を想像する力に欠けていた。「泊まって行きなよ」と言われれば喜んで泊まっていったし、「ごちそうするよ」と言われれば美味しくありがたく頂いた。そのころ妹の家にもよく泊まりに行って楽しく過ごしていたのだが、実はそのことが妹にとってはイヤで苦痛でたまらなかったことを知ったのは、妹が我慢の限界に達して大爆発をした時だった。流石にそのことには大いに傷つきはしたものの、だからこそ家族や身内よりは友人関係に重きを置いた生き方を続けてきたように思う。
 このような性格なので、ブラジル人の裏表のなさには本当にくつろげる。本心ではイヤなことを「いいよ」とは絶対に言わないのがブラジル人。やりたくないことは「やりたくない」と、できないことは「できん」とそのまんま伝えればいいだけのこと。
 そんなブラジル生活も「いよいよ十五年目に入るなぁ」と感慨深く思っていた先月、夫が大怪我をした。夫の負傷について記述する前に、この二年間のわたしたちの暮らしについての経緯をざっと。
 コロナ禍での営業禁止令により、生業であるレストランを開けることができず、食べるのもやっとな暮らしを二年弱。ようやく営業を再開できてお客さんが戻って来はじめたと思ったら、わたしたちの暮らす地方での大雨つづきと水害で来客激減で収入も激減。二〇二二年後半あたりからお客さんが戻り始めた矢先に、家が大損壊。大規模改修工事のため貯蓄のすべてを工事に投入、自らも汗水たらして働いた。工事が終わり一息ついたら、飼い猫が布を誤食し命に関わることだったので、内視鏡手術・入院で高額な支出。借金をした。
 貯蓄ゼロになったことにより、文字どおりの自転車操業で、レストランの売上から仕入れをし、すなわちお客さんが少なければ仕入れができず、にっちもさっちもいかない状態の真っ只中にあった。そんな日々のなか、夫が高いところから転落し首を強打。大怪我専門病院に入院。
 幸い命に別状はなく、夫はいま手術の順番待ちをしながら療養している真っ最中。わたしは介護に勤しんでいる。
 夫が転落し一瞬意識をなくして横たわっている姿をみたときには氷のように冷えた心で夫を失う覚悟をしたように思う。そこから先は、ただただお念仏を胸と口に、頭ではどのようにこの窮地を乗り越えられるかを考え続けた。
 わたしたちは三人家族。家族も親戚もみな日本にいる。近所に暮らすブラジル人の友人たちは実質的な援助をどんどん買って出てくれてとても助けられている。彼らがいなければわたしひとりで動くことはできなかっただろう。しかし、二十四時間付き添いが必要な病院への往復のバス代も尽きた状況に陥り、お先まっくら。
 日本の友人に事故のことを知らせると、彼女が共通の友人に声をかけてくれ応援金が集まり始めた。
 二千四百円しか残高のない口座に次々と「入金がありました」とメールで通知が届き、何事かと思い銀行口座にログインしたときの気持ちはずっと忘れない。暗闇の中からたくさん届いた光の熱量は壮大だった。友人たちの厚意により、凍えそうな胸に火が灯った。
 「しっかりと立っていよう。かならず乗り越えてレストランを再開させてみせる!」と心に誓ったのもこの時だったように思う。「貴女が今、きよちゃんを支えなくて誰が支えるの!?」と友人たちから背中をばんばん叩かれて励まされているのがよく解った。日本は遠いけれど彼らがわたしに寄り添ってくれていることをすぐそばに感じた。
 「わたしたちにとって必要な経験だからこそ、この事故を如来さまがお与えくださった」と受け止めたのもこのときだったと思う。恐怖が薄らいでいき、心はどんどん頑丈になっていった。
 しかし娘はこのことをよく思ってなくて厳しい言葉をわたしに投げつけてきた。「家族に起きるアクシデントに自分たちの力で対処できんのは大人としてどうなん」と。「まだ手術も終えてないのにいろんな人を巻き込んで」と。
 娘はわたしの父にとって唯一の孫であり、幼い頃からじいちゃんっ子なので、我が父と同じ考え方をしていることは解るのだが、耳が痛かったし、ひどく傷ついた。娘がわたしを反面教師にしていることもよく知っていたけれど、それでもとても傷ついた。
 けれど、「友人に話すべきじゃなかった・助けを乞うべきではなかった」とは思わなかった。なぜなら、もしわたしが逆の立場やったら、「そんな大変な事態になっとることをなぜわたしに相談してくれんかったん⁉」って悲しくなると思うから。「つらいときこそ縋ってほしい・助けを求めてほしい」と思うから。
 でも「娘には娘の・父には父の考え方があるんだ」と改めて受け止めることができた。それでいい。変わる必要も変える必要もない。みんなちがってみんないい。そして、わたしはわたしの生き方で生きていい。
 少子化も核家族化もどんどん進み、日本は家族だけの力でこの世界を生きにくくなっていると感じる。だからこそ、家族・親戚などの垣根を取り払い、「おとなりさんも遠くの友だちもみな家族だ」という考え方にシフトせねばならんのではなかろうか。
 わたしたちはみな阿弥陀如来さまの子。
 今の時代こそ、血縁関係に捉われずに袖触れ合う人みな助け合って生きていかねばならんのじゃないかと思う。そんな世界になれ、と心底願う。
 父からの教えはもうひとつあった。「やろうかな、やるまいかなと迷ったらやれ。言おうかな言うまいかな、と迷ったら言うな」。
 いま父に言おうかどうか迷っていることがある。
 あなたの孫が先日無事ブラジルの大学を卒業できたのは、わたしたち夫婦の友人が三年間学費を援助してくれたお陰なんよ。わたしたちの娘に学業を続けさせてあげたい、との思いからの経済的援助。すなわち、わたしたちと彼との友情が為したこと。
 お父さん、今までわたしを一度も褒めてくれたことがないけれど、いまこそ初めてわたしを褒めてよ。「いい友だちに恵まれたのはお前自身もなかなかいいやつやからたい」と。
南無阿弥陀佛  

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